学んでも成果につながらないとき 半分だけ諦めて それから

Series「181°」
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「小説は役に立たない」

学生時代に図書館で小説を読んでいた時、それを見つけた教師が「小説を読んでも将来役に立たない、参考書を読め」と言ったことがありました。

ところで最近、僕のまわりには体系的に勉強をしたのに成果が出ないと悩む人たちがいます。アシスタントを何年やっても自分の写真に自信が持てない。会社に通い資格も取ったけれど、思う通り仕事ができない。

先日、写真学校で講師をする友人と飲んだときにも、卒業してから15年後に写真活動を続けられる人は30人に1人しかいないという話を聞いて驚きました。勉強をしても高いレベルには進めない、成果を出せないということが、どの世界にも起きています。

どうしてこういうことが起きてしまうのか。一つ考えられるのは、学びはとても大切だけれども、現実には体系的な学びだけでモノゴトをカタチづくる、また成果まで持っていくことは難しいと言うことかもしれません。なぜなら、万人に開かれた体系(≒ハウツー)はあくまで一般論だからです。

学校に行く、大学に行く、ワークショップでの学びは人生そのものに直結していないことが多い。僕らのキャリアと人生の芽はもう少し別の場所、他人の目には触れないところ、自分のごく身近なところにも眠っているのではないでしょうか。

つまり、初見感、意外性、こういうものが人から見たときの “成果” や “カタチ” の一つの姿です。そういうところに世界観が自ずと宿るわけですが、それは意外に自分の近くにあり、でもそれを開花させるには独自のルートを辿らなくてはいけない場合が多い。これが現実なのではないかと思います。

独自ルートはどこに

ではどこにそのルートがあるのか。

分かりません。繰り返しになりますが、万人に開かれたものではないということではないかと。ルートがどこかと思う気持ちが、最も世界観や独自性とは遠いものであるかもしれない。これは誰にも分からない。

例えば家に帰るとき、最寄駅で降りないで、あえて一つ前、二つ前の駅で降りる人はいません。でももしかしたら何人かはそういう人がいて、家に着くのは毎日遅くなるけれど、その人なりの個性的な帰宅時間を過ごしている。些細なことだけど、こんなことでも人と一線を画す独自性です。

僕はコロナ禍で時間ができたので映画を観ました。数えたら2年半で280本観ていました。数は関係ないと思いつつ、それでも意味を持つことがあります。まず、映画を通し40か国以上も旅ができた。ヘルツォークの「フィッツカラルド」という映画には、大きな船が山を登るシーンがある。どれだけ馬鹿げたことを人生が受けとめてくれるか、まさしくそれを証明するようなシーンです。極端な本数を見ることで、ただのホビーを超えたリアルな体験として映画が身体の一部にもなるような気がしています。

半分あきらめて

生きている人間は、広義には誰もがアーティストとも言えます。先が見えないという意味において。アーティストなら少々脱線をしても大丈夫なはずです。

でもその脱線は、自分のどこか一部をすっぱり諦めるということから始めます。目標をたてない、結果も望まない。その上で、やりたいことを力強く、潔く、淡々とやってみるということです。周りは無視です。ここに限っては他人様も一般論も関係ない。僕にとっての写真の制作はそのような感じのものです。たくさん映画を観ることも。

何でもいいのだけど、学びの時間がある程度終わったら、ちょっと極端に片寄った時間を過ごしてみる。極端さは吉と出るか、凶と出るかは分かりません。でも個人的には必ず吉となって返ってくるはず。すこし諦めて、でも徹底的に、冒険的に。

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