西洋の風景画を見ていて時々感じることに、すごい絵というのは当然ながら静止しているにも関わらず、まるで動きがあるように見えてくることがあります。
人間の目は心や経験と直接に繋がっているため、一つの止まったものを眺めたときに、必ずしもその見たものを「静止」と捉えるとは限らないということだと思います。
画家はおそらくそのことを分かっていて、筆づかい、色づかい、筆致をもって、縦横無尽に動きをともなってこの世界を描き、静止した絵のなかに、まるで心を動かす呪術として「うごき」を宿して見せているのだと思います。

一方、これもよく感じることですが、ドローン、小型カメラを使い機動力満載に撮った映像が、それ自体が目まぐるしく動くのにも関わらず、全くもってなにか静止したままの状態として映ることがあります。
これはまるで、ビルボードの広告が満載の渋谷の街を歩きながら、実は意識が下を向いたままで何も心に触れてこないのと似ています。
この絵画や映像、街の問題は、「動き」とは何かという問題を根本的に孕んでいて、どんなものでも結構当てはまります。ダンサー、ミュージシャン、映画、スポーツの試合。
最近見なくなったカタツムリを10分間じっと眺めていれば、見る側も見られる側もほとんど動きはしないのに、心だけはまったくもって大きく躍動することに気付くはずです。
僕は自分が撮る写真については、マイナス170°に瞬間冷却したようなある種のフリーズ(完全静止)感覚を伴うイメージが好みなのですが、ただ観る人には、なにか高揚するものを一瞬感じとってもらいたいと思っています。心がうごいて欲しいということです。
動きというのは心の作用が中心にある問題ですから、モーションとしての動きを見せるだけでは、人の心は容易には動かないことも多いのです。
心の動きはそのまま「生命」の言い換えにもなりますし、そう易々と人間ごときの意図で自由自在になるわけではないということです。
写真や映像をやる人間としては、このことを本能的に気づかないといけないですし、優れた画家がそうであるように、映像が物理的に「動く」だけでは物事はうごかないことをよくよく理解すべきかなと思っています。
僕は、静止した絵に動きを見、うごく映像に静かなものを感じる瞬間がけっこう好きです。