僕らはアイデンティティのある人生を歩みたいけど なかなか歩ませてもらえない

 ©️YOSHIKI HASE
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食べていけるかは判断基準にならない

個展に来てくれた女性に相談されました。高校生の息子が、卒業したら美術大学に行きたいと言っているそうです。美大に行って将来食べていけるか母として心配しており、反対すべきか悩んでいるとのこと。

それを聞いた時、僕の答えははっきりしていましたが、その人には伝えることができませんでした。僕は親になった経験がないので遠慮をしてしまったのです。

その人は、僕がアーティストであると知って話をしてきたことを考えると、僕には言えることがあったのかもしれないとあとから思いました。

僕自身もともと4年制大学を出て一般就職し、27歳で会社を辞め、30歳を前に写真の世界に転身しました。なので、美術をやりたいという人がいたら応援をしたい気持ちになってしまいます。

食べていけるかというのは、人類が長い歴史を通じ未だ解決できない普遍的な問題なのです。だからこそ思います。そのような誰もが抱くであろう当然の悩みを、大事な判断の基準にしてはいけないのです。

たとえ一般企業に入っても種類の異なる困難に遭遇するでしょう。経済的問題が雲散霧消するとも限りません。

自分で決めない道をどうして歩けるか

一番大切なのは”自分で決めた”と本人が思えることです。これは、どの世界に行くか以上に大切なことです。

自分で決めずに誰かの考え(≒圧力)に同調したという想いを本人が持つような状況はなくすべきだと思います。美大卒で食べていけるかという周囲の不安が、行きたい本人の意欲に優先されてはなりません。

また僕自身の様々な経験から、本人が行きたいと思った以上、その人には本人も気づかない何か潜在的な動機があるものです。

人は才能、能力、将来の展開について、自分のことであってもほとんど無知なのです。AIの力を借りても、潜在的な才能や冒険心までは測ることはできないでしょう。

社会人としての経験のない年少者だから、大人としてその将来に口を出したいという周囲の気持ちは分からないでもないです。しかし僕に言わせれば、社会人としての経験はあっても、自分の道以外の経験は誰にもないのです。

だから人は誰かにアドバイスをするとき、自分の側の経験とロジックだけをもってアドバイスをしているわけで、対岸のことについては考慮が及んでないわけです。

そうである以上、誰が語る言葉も、高校生や大学生にとっては片手落ちのものであり、不足があるのは明白です。全知全能でない我々が、人にものを言うというのはそれくらい大変なことで、ましてや進路というのは、将来の展開という意味においては神の領域と言ってもいいことです。

将来の安全を諭したところで、人生の機微や喜び、悲哀、出会いまでもは考慮に入っていません。人生の一番の醍醐味が全て考慮から抜け落ちているのです。

生きるのは”社会”だけではない

大人の冷静な分析を信じすぎるのも考えものです。大人は人生に満足してない人がほとんどなのです。本人の想い以上に完全で強いものはありません。

僕の場合もそうでしたが、ながい時間が経ってみれば、想いには見えない根拠があったこと、ある程度自然な流れであったことがあとから分かってきます。

僕らは社会というより、より大きい視野で “せかい” に生きていると思うべきかもしれません。自分の経験は常に限られているのです。

“せかい” は予知できないものであり、そこで起きることにその時の最善で対応することだけが我々に問われていることです。そのとき頼りになるのは、本人の決心と想いです。今更ですが、想いこそが、その人にとっての唯一無二のアイデンティティーなのです。

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