優しさは「怒り」の上にあってこそ 失わない 高貴なエネルギー

©️YOSHIKI HASE
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怒る

怒りを封印しません。

僕の中には怒りがあります。何に対してか。世の中、周り、過去、友人、自分。どれも当たっていてどれも完全ではありません。

何があってもやらなくてはいけない、人生の宿題を遂げたい、放棄せずにいたい。そんなことを強く思うことが時々ないでしょうか。気持ちのだいぶ下の方、抑えのきかない、少し激しく、不満以上の感情。これを「怒り」と呼んでいます。

現状への、周囲への、自分への怒り。仏様から見れば未熟の極み。でもそれはそれとして、そういうものが僕には確かにあります。

優しさや順応性、周囲への同調だけで物事が立てられている訳ではない。昇華するもの、ゼロイチ、”なんとなく” と違う、カタチあるもの、自分の脚で起立するもの、走るもの。「怒り」が背景にあるから生まれるものがあります。

地下都市を築かない

人前に立てば、周りを不快にするのも本意ではありません。しかしこのブログの中では、作品づくりの背景にあるメンタル、心理状況もできるだけ隠さないようにしたいと思いますので、これを著します。

人と話す時、また社会で活動する時、”怒り” が前面に出てくるシーンは殆どないですね。またそのようなことが実は可能だと僕らが教わることもありません。

怒りがテーマのキャンペーン、撮影、テーマパーク、教育もなかった。でも僕は少しだけ学んだことがあります。ニューヨークの街、音楽、アート、自分の制作から。

なぜ人は根本的に力がないのでしょうか。そして価値ある高貴な情緒を、反故(ほご)にしてしまうのでしょうか。

怒りの情、怒りの建築、怒りのポートレート、怒りの広場、怒りの会合、怒りのデザイン、なかなか出会えません。優しい、優しい、気持ちいい、角のないもので溢れかえる。でも本当の優しさはただ優しく見せるだけでは生まれない。あまりにも感情を外部に出せないために、地下都市を個人個人の内に築いてしまう。心が病み、生活をつまらなく思う人がどんどん増える。

具体性の欠けるテキストで申し訳ないですが、僕らの抱える小さな問題や、幾つかの調整事項は、少しの知性と怒りをもって立てば、少なくともその人の内では解決に近づける事があると思います。

規律ばかりに気を取られ、”怒り” という非常に重要なピースに目がいかないことが多い。到達できない高み、理想像、作家像、人物像、人生がなかったでしょうか。僕はそれがあったので、だから”怒り” を保持したまま10年、15年とやってきました。作家として、個人として。

怒りは決して誰かを痛めつけるものではなく、その所在によっては大きな自然エネルギーとなり、燃えるべく燃え、処理を生み、ゼロイチとして生まれ変わります。見過ごすことのできない、生理現象です。

もし前に大きく進みたいなら、絶対にこれを失ってはいけない。

その自由さは

ここまで書いたような内容は – 過激 – という誤解を生むことがあります。周りを繕う場合、「心を鎮めて」「穏やかにいこう」と言われることとなります。そのような姿勢に、僕は一時的に反対を表明します。

これは過激なことをせよということではないこと。この拙いテキストから汲みとって頂けると嬉しく思います。むしろ、未知の自分、未開発の力を覚ますために、残りの時間を無駄にしないために、有効な話をしているのです。人生を軌道に乗せることについて書いているつもりです。

またこれは、作家としての力量にもとても関連している話なのです。

僕の作品に宇宙的なもの、多次元的なもの、自由さを感じると言って下さる人が今もたくさんいます。まだまだ未熟ですが、それは嬉しい言葉です。

一方で、感じてくれたという -自由さ- は「怒り」なくしては立ち現れなかったであろうものです。感情的な混沌も自由さに加担しているのです。ただ気持ちいいだけの関数は、糸の切れた風船の集まりです。

さて、昨日今日何かありこれを書いている訳ではないのです。日常的な通常運転の中で、特に制作中はこういう状態ですということを少しお知らせしようと思っただけです。

年末となり来年に向けても良いかなと思いました。

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