僕らはダンサーです。写真を撮るときには。
写真は5秒前を撮れず、撮れるのは「いま」のみ。
ダンサーは時間の海を色々な泳法で泳ぎきり、身体ひとつで対岸の岸辺に立ったときには、なにか違ったものに変わっています。
ダンサーが身体を使ってそれをやるとしたら、僕らは手になにかを持つことで、少しだけそれに似たことができるようになります。
手におもちゃを持てば、子供はなにかを叩く。そういう感じです。
“手持ち無沙汰”という言葉の通り、”持つ”というのは一つの違いを生み出す方法です。違った情景が生まれるのです。
これは道具というものの本質でもあるし、人と道具の関係の話でもあります。
どちらが主、どちらが従かは、問題ではありません。全体から見ればどちらも一緒です。
このようなことを、土、石、水のそばで行うとき、人は道具にもなり、道具は生命のようにもなります。
僕は自分で作ったものを、ただ動かしてみたり、土の形に添うように置いてみたり、そういうことをただただ繰り返しました。それを写真に撮ります。
– Code -という仮名の写真たち。
7、8年のダンスの軌跡。