「181°」という作品があります。今のスタイルのキッカケとなったプロジェクトです。頭に浮かぶビジョン(≒イメージ)を現実の世界に投影するというものです。
自分的には言語化が最も難しい作品と感じています。
イメージが頭に浮かぶ段階で、スケッチをノートに残しますが、実際に撮影に漕ぎつけるまでには数年を要しました。
というのも、イメージがとてつもなく非日常的であるため、環境を作ることが先決だったためです。具体的には、
- 長さ4メートルのオブジェを作る
- 重力を克服する仕掛けを作る
- 場所を確保する
オブジェは作れば良いだけです。最も簡単なパートです。
時間がかかるのは、重力克服を可能にする協力者に出会うことでした。お金が潤沢にあれば何でもレンタルで代用可能ですが、個人作家としてはそれも難しく、人との縁がキモとなります。
あるタイミングでの造園家の人と出会い、これがブレイクスルーでした。
彼はUNIC(重機)を持っていたので、僕が数年間実現できなかったことをいとも簡単に1日で可能にしてくれたのです。
撮影は、とある県の砕石場の許可をとりました。この採石場も造園家の彼のコネクションです(有難うございます)
「181°」は簡単に言ってしまえば、自然環境のなかに人工物< 1°>を投入し、人工という「違和感」を取り込んだなか、風景がどのような調和を見せるか(否か)という作品です。
僕のやっていることは、果たして純粋な「写真的」な作業なのかどうかは実際よく分かりません。写真の撮影は本当に一瞬の出来事で、むしろ準備に月・年という単位の時間がかかります。
個展の際に、この写真に写るオブジェを見てみたいという方も多いのですが、その気持ちは重々理解できるとともに、基本的にはお見せしないようにしています。
これは僕のイメージをもとにできたオブジェや風景であって、写真の外(そと)にこれが現実化することで、イメージ自体を壊す、または邪魔をしてしまう懸念があるからです。
僕自身オブジェを見たいのではなく、オブジェが溶け込む「写真としての風景」を見たいということです。
現実の世界にオブジェがあることは、僕的にはまったく成立しないということなのです。
何か不思議なことと行き着く先の解答は、必ずしも繋がるのがベストだとは限らないと思っています。
判らないままでもよいことが沢山あります。
これが科学とアートの根本的な違いの一つではないでしょうか。よく判らないから感じられるのです。
なので、作ったオブジェは撮影後に即解体します。
そして写真だけを残します。
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