目次
調和を意識すれば かえって遠ざかる
バランスをとってくれる人はほかにたくさんいます。僕らのシゴトは中身の詰まった作品を作ることであり、社会的、全体的な調和を築き上げることではありません。
特にいまどんなコミュニティにもバランサーは大勢いるのだから、毒にもならない薬にもならない “調和ごっこ”はほかの誰かに任せてしまいたいと思っています。
本当に創造的な人なら、その突拍子もない考えや思いつきを殺してはいけないのです。多少の過激さ、軋轢は、新世界へのトビラです。内面から湧き出るそういったものは退けようがないはずです。
「和」を尊びすぎていては真の調和には至らない。僕は写真を通じそれを学びました。
少なくとも作り手であるならば、サロンで「調和」の伝道師であるより、より近視眼的な「実行の人」であることがいまとても価値のあることなのです。
死ねば誰でも自然に還るのですから、いまから調和や浄化ばかり意識しなくてもよいのではないでしょうか。
いま足りていないのは、調和よりも、むしろ「違和(いわ)」です。
違和(いわ)をもって貴しとなす。
調和は、混沌を伴う行動の果てに自ずと現れてくるものです。少なくとも僕の場合、最初から調和を意識すればかえって遠のいていきます。
混沌や違和(いわ)を経ていないアートや写真、音楽、人間の顔、なにか嘘くさいものです。
美しさとは、違和(いわ)を無尽蔵に取り込んだあと一瞬見られる情景のことです。
そして、言葉に偏りすぎるのも注意が必要です。僕ら作り手は “言語前” を起点にしているのですから。
調和はむしろ「後退」に近いものと、いまは思えてなりません。