Daegu Photography Biennale 2023 会場あれこれ
韓国で開催されているDaegu Photography Biennale 2023に参加してます。
前回記事 〜韓国 大邱フォトビエンナーレ2023 参加レポート vol.1 もどうぞご覧ください。
さて次に、メイン会場の大邱 Culture and Arts Center の僕の写真以外の展示を少しご紹介します。
面白かったのは、Jangwoo You氏の作品。
様々な職業のプロフェッショナルのポートレート。これは仕事の苦悩について、手にLEDライトを持った状態で話をしてもらい、そのライトの軌跡を長時間露光で撮影するというプロジェクトです。
古い技術を斬新な使い方で見せており、少しハッとしました。
これを見たアメリカ人キュレーターが語っていたのは、
ー 現代は、写真家にとっては苦しい時代だ。もう何も新しいものは残されていない。何を見ても、どこかで見たものと似ている時代だ。そういう意味では、この作品は興味深い ー
僕も同感でした。
少し斜めな見方をすると、批評する立場の人にも、愛好家レベルのアマチュアにも、両方に興味を持たせるキャッチーさと、奥行きを併せ持っているのかなと感じました。そういうプロジェクトは、はなかなかできるものではないのです。ちょっと羨ましい。
あともう一つは、Goeun Lee氏の大型作品です。この作品は長辺が2メートルあります。身長より全然高い。巨大です。
高速シンクロシステム(おそらくブロンカラーなど 1/5000以上の超高速ストロボ発光による同期)を使っていると思います。間違っていたらごめんなさい。
被写体は、これが興味深く、テーブルの上に果物・燭台・花などを静物画のように並べ、それを爆薬で爆発させる瞬間を捉えるというものです。
中身はもう少し深掘りしないと僕には判らないのですが、トライしている内容、古い慣習を新しい手法で破壊する、そしてその瞬間を捉えるという、どこか写真っぽい”お行儀の良くない” 感じが印象的でした。
プリントが何より大きいので(長辺2メートル)、迫力を想像できるかと思います。
メイン会場の2階はフォトブックブースです。フォトブック以上に面白かったのは、壁に貼られる言葉でした。世界中の写真集関係者が、写真集の出版について”宣誓”のような何か強いメッセージを記述し、それが20枚くらい掲示してあります。
一つだけ印象深いメッセージを紹介します。
ー 結局、本は生き物であり、それ自体がこの世に生まれてくる必然性がある。もし必然性がないのに、それを産み出そうとすれば、それはただの物理的な紙の集合であって、写真集にもならない ー
のようなことが書かれてありました。僕の記憶なので、言い回しは正確ではありません。
これは写真集に限らず、この世に生まれるどんな製品にも当てはまる -警鐘- のようにも聞こえます。
そして、Daegu Photography Biennale 2023の図録を頂いてきました。印刷は展示以上に素晴らしかったかもしれない。
作品 DESSIN もハングルと英語で紹介をしてもらっています。図録のテキストは、スピーキングの勉強にもなってよいですね。声を出して読めば、人と話すときにいつも以上に語彙が出やすくなります。
英語は、自分の分野のことだけでもしっかり話せれば、ある程度乗り越えられます。ただアートは哲学とも近しいので、会話は込み入ってきます。自分の作品に関して、聞かれた時は、できるだけ精密に受け応えができるようになりたいのですが、これはいつも難しさが残ります。
もう少しハダカでいたい 本当にそこがいつも難しい
最後に、 LUMOS Galleryに行ってきました。ここは釜山国際写真祭の総合ディレクターが運営するギャラリーです。
シンガポール人キュレータ Gwen Lee氏のレクチャーが行われており、これは勉強になりました。
しっとりしたプロジェクトの紹介に、奥行きある歴史と環境の洞察が潜んでおり、僕が普段接する写真の概念とは別質のものを感じます。
現代写真の特徴である独特のアカデミック模様、かつ歴史の背景をなぞるようなアプローチは、僕的にはこれに接することで、一種の – 緊張 – を覚えます。
なぜなら、
ー あなたは 「社会」とどうのように関わり、どのように考え、生きていますか ?? ー
と、”問い” を常に突きつけてくるからです。
正直、人間は考えながら生きる動物か、ただ生きていればよいのか、写真をやっていると益々僕には分からなくなります。
知性というのはメンテナンスが必要と思います。その知性が、衝動と感性を圧倒的に上回るとき、僕は少しややこしさを覚えます。それが自分の感じる “緊張”です。
自分の正直さや素直さがどこか圧迫されます。
詩も本も好きですが、ただ圧倒的な量の -知性- とか -解釈-が最前線で事を運ぶ現場は、作り手の本来の居場所ではない気がしています。
アートの世界で発表を続けると、このような自分のなかでの “衝突” が起こります。
だから自分が作るものは、知性、社会問題、規律とは(少なくとも入口は)少しだけ距離を保っておきたいと思っています。いずれ飲み込まれるのは分かっていますから。もう少しハダカでいたいのです。
長い距離を歩くのも、写真を撮るのも、人と話すのも、僕には衝動が必要です。整理のない時間。
いずれにしても、またそのようなことを考えさせてくれる?( +矛盾してんじゃんか )とても面白いセッションでした。Gwen Leeさんありがとうございます。
アジアはすごい。日本は置いてかれてるなあと、やはり今回も思ってしまいました。
読んでくださってありがとうございます y