個展は黒字、でも制作は大赤字

KANA KAWANISHI Gallery, Solo Exhibition – COLOSSUS –
KANA KAWANISHI Galleryでの個展COLOSSUSが会期を終えました。猛暑の7〜8月だったにもかかわらず、ご来場くださった皆さまにはお礼を申し上げます。さて、この個展に関して少しだけリアルに振り返ってみたいと思います。
まず、今回の個展を終えて最も安堵した点は、収支がプラスだったことです。これは非常に大きい。
個展の準備費用として、以下のものにxxx万円の経費がかかりました(具体的に示せずすみません)
- 写真プリント
- 写真マウント
- 額装
- 小道具
- 映像機器
作品がある程度売れたお陰で、個展としての収支はプラスになりました。不安であった部分でもあり、これをクリアしたことは意義があります。特に、海外展示を見据えサイズ設定している 135 x 99cm の大型作品が複数枚販売できたことが助けになりました。
もし赤字だと、個展の開催に恐怖心が膨らんでいきますし(常に若干あります)、この活動の不条理さを益々感じることとなり、精神的に負のスパイラルに入ってしまいます。
ただし、個展の前提となるプロジェクトの制作にも費用は毎年かかっており、この部分については10年近くまともに回収はできておらず、それを加味した場合は赤字ということになります。つまり、まだ生計をアートだけでは建てられていないということです。
写真を飛び出し、空間をつくる
次は個展の内容についてですが、
1)作品を作ること 2)個展をひらくこと
この2つはまったく違う作業です。作品があれば個展を開けると安易に考えると、あまり良い展覧会にはならないと思います。
KANA KAWANISHI Galleryは、一つの空間がゆったりと2つに分かれており、どのようにそれぞれを利用するかで頭を使いました。メインの写真群を一つ目の空間に設置し、緩く仕切られた二つ目の空間にオブジェ+ビデオインスタレーションを配置しました。

KANA KAWANISHI Gallery インスタレーション
写真は一旦完成すれば形を変えませんが、空間は展覧会のたびに場所が変わります。であれば、その都度 “新しい空間をつくる” ことが必要になります。展覧会は写真を壁にかけるだけではないと思っています。
作品は空間の一つの構成要素にすぎないと捉え、とにかく空間全体で世界観をどう表現するかを考えました。
よく個展で、ポートフォリオなどを並べるため、中央にドカンとテーブルが置いてあったりしますが、僕はこういうのも目線・導線を遮断してしまうため(場合によりますが)とてももったいないと感じます。
見にきた人が空間の中でどのように体を動かすか、目線が、感情がどのように動くか、どれくらいの時間をどの辺りで過ごしそうか、できるだけの想像力を発揮して空間全体の設置を行います。
空間として世界観を表現するのに役立っていないと判断すれば、たとえ単体として好きな写真であっても、”展示しない” 選択肢もあり得ます。
個展は写真という作品を使った「空間芸術」なのです。
虚しさを乗り越え、背伸びをし続ける
かつての僕は個展が終わると、理由の分からない虚しさを感じることがありました。これは一体なんだったのかと。一種の虚無感に襲われていました。
個展は楽しいこともありますが、同時に、長い長い作品の制作期間に比べると、わりとあっさり終わってしまうものです。大きな話題をさらうこともそうそうないですし、販売にも繋がらず、客足も伸びない場合には悶々となります。なかなか、反応というものは感じにくいものです。
本当の意味で個展を有意義なものにするためには、最低一つ、自分のなかで背伸びをすることが必要な気がしています。
今回、僕は写真の世界観をさらに膨らませるために、オリジナル映像作品を2個、インスタレーション+映像+サウンドの複合作品を1個、合計3個の写真以外の作品を用意しました。
もちろん、写真作品と内容的に密接な関連性があり、相互に補完し合い、それがあることで個展の質がさらにあがると思うものです。
反省点もありますが、この映像とインスタレーションがあるのとないのでは、個展のイメージもお客さんからの印象もだいぶ違ったのではないかと思います。見た方にはどのように映ったでしょうか。。
この背伸びは、予算面、内容面も含め、クリアできるかギリギリ分からないくらいのハードルを設定します。そしてその結果を受けて、良いも悪いも全て吸収します。
この少しの背伸びを続けると、個展の価値が自分にとって計り知れないものになっていきます。