
シゴトはどんな人でもできる
撮りたいものがあるのはとてもラッキーなことだと思います。カメラマンや写真業界のなかには、”撮りたいものがよく分からない”という人が実は結構います。
正直に言えば、撮りたいものが分からないのになぜ写真を始めるのか、これは少しミステリーです。でも写真を始める動機は様々だと思いますし、撮影の “シゴト”をしていくことに関していえば、撮りたいものが分からなくても殆ど支障はありません。
結局のところシゴトとは、人が好き、働くのが好きであれば、ある程度軌道に乗せることはできると思います。
シゴトは、基本の技術、対応力さえあれば、あとは人付き合いが大半です。いかに多くの人とつながり信頼され、深く関われるか。これができればコマーシャルカメラマンとしてやっていくことはきっとできると思います。
撮りたいものがあるか
しかし「写真」というのは、シゴトさえしていれば極まるという次元のものではないとも思っています。
特にいまシゴトの現場は、レイアウト用の ” 素材撮り” が中心であり、本当の意味で「写真」や「表現」をできる環境ではなくなってきています。
写真をするといっても、働いて食べていけるだけでよい人と、本当の意味での表現をしたい人ではまったく異なる人種ということになります。
僕は15年くらい両方をフルにやってきましたが、根の部分では完全に「表現をしたい人」です。
ー 自分には撮りたいものがあるのか ー
これがとにかくキーなのです。
僕は30歳で写真を始めたためスタートは少し遅れましたが、始めた頃からこれまでずっと撮りたいものがありました。ニューヨーク時代も日本にいる今もそこだけは変わりません。頭の中は撮りたいもののイメージでいっぱいです。
もし撮りたいものがあるのであれば、時間と意識をそこに合わせていかなくてはいけません。撮影のシゴトが楽しかった、クライアントに喜んでもらえたからと充実感に浸っているだけでは「表現」は進みません。
依頼がなくとも、見る人がなくとも、表現(作品づくり)をとにかくします。1人の世界に入り込み、イメージを広げていくのです。
作品がどこかに連れてってくれる
ー 作品が自分をどこかに連れていく ー
これはニューヨーク時代に、僕がある人に教わった言葉です。
少々大げさですが、作品づくりとは天が特定の個人に与えた “この世の課題” とも言えると考えています。
個性と普遍性の究極の交差点を探す作業です。社会のニーズに常に対応していく時間軸では決して測れないものです。
この作業を集中して3年、5年、10年と続けていくと、いつかどこかで出会いが訪れ、何かしらの扉がきっと開けます。しかもその扉は作品を通じ開いたものなので、自分に適したものになる可能性が高いのです。支援者が現れる、展覧会が開かれる、何かきっと起こるかと思います。
僕には、まず作品の理解者が現れ、写真集のスポーンサーが現れ、ギャラリーが現れ、国内外の展覧会の依頼が届き、作品を通じて世界に親友ができました。
PR、発信の力をもちろん侮ってはいけないと思いますが、何よりも続けることが大切だと思っています。もし自分を”表現者”と自認するならば、見る人がいなくても、自分に向けて作品を作ります。自分が感動できるものを作り上げるのです。やらないのはもったいないことです。
人生はどこで終わりを迎えるか分かりません。そのうち作品を撮りたいなと思っていると、きっと何も撮らないで終わるでしょう。この世界はそんな人で溢れかえっています。
いま撮りたい、作りたいものがあるというのは、それだけでとても幸せなことであり、ひとつの運命でもあり、最高にラッキーなことなのです。